2015年2月19日木曜日

太宰に恋して   I(北海道在住)

 昨年の春、北海道から弘前大学に進学した息子の家の近所で偶然「まなびの家」を見つけました。太宰治は名前しか知らなかったのですが「どうぞおはいり下さい」の張り紙に誘われ中に入ると、太宰治が官立弘前高等学校へ通うために下宿していた旧藤田家の住宅だと、解説員さんが丁寧に案内して下さいました。
「私は、この弘前の城下に三年ゐたのである。弘前高等学校の文科に三年ゐたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝つてゐた。」(『津軽』より)
 日当たりの良い2階の下宿部屋には、愛用した机やたんす、壁には学生服と黒いマントが掛けられ、よく見ると壁に苦手だったという数学の方程式の落書きも残っています。「見栄っ張りでオシャレで三味線が趣味で、芥川龍之介を意識し…」との説明を聞き、そこにあった太宰治の写真に胸がときめきます。長身で面長、大きな目に筋の通った鼻…前髪を垂らしニヒルな微笑み。なんと私は一瞬で太宰治に恋してしまったのです。
「生活。よい仕事をしたあとで一杯のお茶をすする。お茶のあぶくにきれいな私の顔がいくつもいくつもうつっているのさ。どうにかなる。」(『葉』より)。
 自分の顔をきれいだと言い切る太宰治は、やはり格好いいと思います。
 座敷のテーブルには「太宰治作品全集」と原稿用紙、よく削られた鉛筆が置いてあります。適当に1冊手に取り、たまたま開いたページの一節を「私が好きな太宰の一節」という見出しの続きに書き写しました。
「人間が、人間に奉仕するというのは悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは善い事であろうか」(『桜桃』より)。
 翌月再び訪ねると、解説員さんは私のことを覚えていてくれました。「斜陽館」の写真を見せてくれ、太宰治の故郷である金木町の話をしてくれました。実際に「斜陽館」を見たくなった私は翌日、津軽鉄道「走れメロス号」で金木町を訪ねました。「芦野公園」駅で列車を降り、桜の下で威風堂々と建つマント姿の銅像前で一礼します。彼が通った小学校の前を通って金木町へ向かい「太宰通り」「メロス坂通り」をのんびり散策します。太宰治の実家である津島家の菩提寺「南台寺」、幼少の頃、子守りのタケと訪ねた「雲祥寺」をお参りし「斜陽館」に着きました。重厚な赤レンガ塀にぐるりと囲まれた宅地は面積約860坪という大豪邸でした。最後に「太宰治疎開の家」(旧津島家新座敷)を列車の時間ギリギリまで見学しました。
 帰りの電車で「太宰餅」を頬張りながら色々と考えてみました。常に死を意識し30代で命を絶った太宰治。心中した山崎富栄は遺書に「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません」と書き、太宰治は妻に「美知子、誰よりも愛していました」と記しました。彼を愛した女性達は彼を愛したことを後悔してはいないと思うし、太宰治は幸せだったのではと思います。今秋、「まなびの家」の訪問で書いた「一節」。
「子供より親が大事と思いたい。子供よりも、その親の方が弱いのだ」(『桜桃』より)
 これは、父太宰治が子へ宛てた最期のメッセージ(言い訳)のようにも思えました。
 次に弘前を訪ねる時は小説「津軽」をカバンに入れて、太宰治が通った土手町の喫茶「万茶ン」で読むつもりです。そして、また「まなびの家」に行き、太宰治ファンになるきっかけを作ってくれた太宰治にソックリで親切なイケメン解説員さんに会って、お礼を言おうと思うのです。

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