2015年2月19日木曜日

「太宰は好きか?」と問われて   大津 眞也(高松丸亀町弐番外・参番街 運営室 館長) 

 大学生の頃、仏文研究室の先輩から「太宰は好きか?」と訊かれた。即座には好きとも嫌いとも答えられなかった。何故なら、作家太宰治と同じ津軽という気候風土の地に生まれ育った私には、とても繊細で微妙な問いかけだったからだ。いま還暦を迎え、39歳の若さで入水自殺を遂げた太宰治よりも20年以上も長生きしているのに、いまだにこの質問の答えを見つけられずにいる。

 最初に読んだ太宰治作品は中学校の国語の教科書に載った『走れメロス』だ。当時の中学国語教師工藤光男先生の情熱的な授業も今ではとても懐かしく思い出される。「メロスは激怒した」の書き出しで始まる彼のこの短編は、漸く小説を読み始めたばかりの田舎の中学生にはかなり新鮮な驚きだった。高校に入学して間もなく読んだ仏作家アルベール・カミュの『異邦人』の書き出し「今朝、ママンが死んだ」に出会った時、この『走れメロス』の書き出しを思い出した。

 私が入学した高校には、当時3人の太宰治に纏わる先生方がおられた。校長の小田桐孫一先生は芥川賞創設の文藝春秋社の菊池寛(今私はその菊池寛縁の地の高松にいる)に薫陶を受けて、戦後故郷弘前に戻り、教育者になった。教頭の藤田本太郎先生は旧制弘前高校時代の太宰治が下宿していた藤田家(現在の「太宰治まなびの家」)のご子息であり、津島修治に可愛がられた少年だった。もうひとりは授業を受けることはなかったが、太宰治研究家で後に大学教授になった相馬正一先生だ。

 小田桐孫一先生は私たちが最後の卒業生だった縁(私たちの同期会の名称は「孫の会」)もあり、私は帰省の度に何度も撫牛子の先生のご自宅にお邪魔した。一度だけ太宰治のことを尋ねたことがあった。どんな内容だったのかは今ではあまり覚えていないが、遠くに視線を投げて悲しい表情をしていた記憶だけが残っている。きっと先生にとっては、戦前、戦中、戦後の同時代を生きた同じ津軽出身の太宰治は簡単に論ずることができる対象ではなかったに違いない。

 『走れメロス』から始まったせいか、『人間失格』や『斜陽』という作品よりも、私は太宰治の短編小説が好きだ。どれが一番とは言えないが、最近は『葉桜と魔笛』がいいと答えている。女性の語り口で綴られる太宰治の短編小説のなんと魅力的なことか。稀代のストーリーテラーと呼ばれる所以だ。きっと弘前公園の満開の桜もその葉桜も観ているはずだし、ねぷた祭りの笛の音も耳にしているはずだ。だから、私はこの短編小説の舞台は勝手に弘前の街だと思っている。
 

 人間太宰治には女々しいイメージがつきまとう。実際、故郷の長兄に頭の上がらないだらしない男だ。それが女性の語り口を借りると生き生きと甦る。もちろん、人間太宰治と太宰治作品は別物なのだが、イメージばかりが独り歩きしている。ただ『津軽』で見せた太宰治だけは津軽で生まれ育った津島修治に戻った姿だったに違いない。「『津軽』の太宰治は好きか?」と問われたら、私は躊躇なく好きと答えるはずだ。

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