2015年2月19日木曜日

太宰治と私   柳家小きん(噺家 社団法人 落語協会 真打) 

 太宰治は、私を落第から救ってくれた、作家である。
 私が、初めて、太宰の文学に接したのは、高校生の頃の現国の授業だった。その年の期末試験の折に、「この時の作者(太宰治)の気持ちについて、述べなさい」という、出題があった。私は、太宰の気持ちには、一毛にも触れずに、「思い人を死なせ、自ら命を絶った人の言葉に、今を生き抜く人に伝えるべき、真実があるのか?」と、設問とは反した、自前の生命論を展開した。その解答は、解答用紙の裏面全面にまで及び、挙句の果てに、「人類が必要としているのは、死の誘惑に打ち克ち、生き抜いてきた人の言葉である」「私は、落語で、その魂の叫びを、伝えてゆく」と、結んだのである。
 今、読み返せば、汗顔の至りである。これが、18の歳の私の真情だった。答えになっていない、私の解答は、点数が付くはずがなく、自ら落第の坂を、転げ落ちたようなものだった。
 これに対し、吾が恩師・吉田輝義先生は、「自ら命を絶たざるを得なかった人の、心の叫びをも、受け止められる人になってください」と、赤ペンで書かれて、私に、及第点を遥かに凌ぐ、最高点を、付けてくださったのである。おかげで、私は、落第を免れた。
 余談だが、吉田先生は、母校から転任後、赴任されたすべての学校で、私を呼んでくださった。教諭として赴任された最後の高校では、先生の文学の授業のひとコマを、私に与えてくださり、私に講師を任せてくださった。後日に、先生は、「貴方の、その誠を尽くす、真摯な生き方が、生徒達の心を震わせ、目を輝かせたのです」と、私にエールを送ってくださった。先生から、「文学とは、自らの生き様を通して、問題提起をし、内なる心の声に耳目を傾けさせる行為である」と、教わった気がした。授業を受けたのは、私だったのである。

 私が、弘前へ伺う度に、「津軽人と江戸っ子は、よく似ているな」と、感じる機会が増える。シャイで照れ屋だが、芯の強さを持ち、実はお洒落で新し物好きで、心を通わせた相手には、とことんまで誠を尽くす。津軽の人々が、誰もが胸中の奥底に持つこの美質は、実は、落語に出てくる江戸っ子そのものなのである。だから、古典落語は、津軽人に、愛されるのである。何を隠そう、私の「津軽人=江戸っ子」説の、一番の証人こそ、太宰治である。太宰は、「走れメロス」の最後の一行で、それを見事に、表現している。
 「勇者は、ひどく赤面した」
真の英雄である主人公を、はにかませながら、その劇の幕を降ろす。ここに、私は、津軽人ならではの美質を見、江戸文化の「粋」を、見るのである。
 私が初めて、青森市内で落語口演する際に、主催者の皆様に、口を揃えて、言われたことがある。
 「青森の人は、あまり笑わない」「誰もが知る、著名な師匠が、蹴られた(ウケなかった)」
 「小きんさん、大丈夫ですか?」
私の知名度の低さからくる、実力の未知数さと、過去の噺家の振る舞いからくる、トラウマとの、合わせ一本!の、反応であった。
 私が、弘前へお邪魔するのは、本年11月19日のまなびの家での会で、八回目。足掛け三年余りで、口演の数は、二十数席にも及ぶ。こんなにも、皆様が、私を可愛がってくださる理由は、弘前の人達の我慢強さは勿論だが、やはり、津軽の人と、江戸っ子の私との、「心の有り方の近さ」が、一番の理由であると、私は勝手に思っている。
 弘前初訪問から、来弘の度に開催している、私の独演会を、「ふるさと寄席」と、命名させていただいた。田舎の無い、故郷の無い私の心の故郷が、津軽だからである。太宰も、きっと、東京に住む人の心の中に、津軽をみたに、違いない。

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