2015年3月21日土曜日

シュウジにまつわるエトセトラ   世良 啓(文筆家) 


 机の引き出しから、免許証サイズの過去が出てきた。弘前太宰治下宿保存会会員証。入会したのは200026日、会員番号706番。丁寧にラミネートされている。
 会長が小野正文、副会長は獏不二男。保存会はこの年4月に発足したばかり。裏の会則第4条にまじめに「太宰治の弘前における下宿先が国家的にも本県にとっても重要な文化遺産であることを周知広報すること」とあって、笑ってしまう。太宰下宿が『国家的』に重要な文化遺産とは、なんとまあ大きな風呂敷。太宰の弟子だった小野正文先生、ふわりと白髪をゆらし、やせたお身体から甲高い声で、ひょうひょうと挨拶される姿が蘇る。言葉をかみしめかみしめ、独特のとオチで、なんとしてでも聴衆を笑わせる。一回のお話で最低三度は確実に。そういえば恩師、獏先生だって高校の英語の授業中、常に脱線しては生徒を笑わせていた。このお二人、人を笑わせることに全力だった太宰DNAを確かに受け継いでいらした。
 15年経つ会員証には旧制弘高時代の津島修治(太宰)の笑顔が印刷されている。はにかんだ笑顔はあの頃のまま、なのに小野先生も獏先生も、とうに旅立たれてしまった。
木の葉みたいに軽い一枚、黙ってそっとしまい込む。
 保存会発足から5年後、2005年7月27日から弘前を会場に全国高等学校総合文化祭文芸部門が開催された。当時、高校の文芸部顧問だった私は文学展示ブースを担当、苦し紛れにつけたメインテーマが「2人のSYUUJI」。弘前に下宿した津島修治、後の太宰治と、弘前で生まれた寺山修司の学生時代にスポットをあて、全国の高校生たちに、教科書に載る文豪、ではなく、盛んに同人誌作りをしていた頃のシュウジ君たちの姿を同じ文芸仲間目線で見てもらおうじゃないか、という企みだった。
 その頃、二人のシュウジと弘前の関係はまだ意外にレア情報だったようで、全国の文芸部員にむやみに受け、会場の弘前文化センターも大にぎわい。「あなたはどっちのSYUUJI派?」という太宰VS寺山人気投票コーナーは、意見を張り出す場所が足りなくなるほど珍意見がどしどし寄せられ、うれしい悲鳴をあげた。ちなみに2人のシュウジの等身大手作りパネルはいまだに弘前中央高校文芸部の部室にあると聞く。
 こんな展示をしたせいか、あるいはもっと前からなのか、どうも二人のシュウジに因縁がある。寺山修司の生誕地や父の歴史、金木の太宰治疎開の家、三沢の寺山家の墓、三鷹、新宿等々、県内外の二人ゆかりの場所へと運ばれ、ゆかりの方々に遭遇し続けている。
 そうこうしているうちに、もしや太宰と寺山は本当に『国家的文化遺産』かもしれない、とマジメに思うようになってきた。一生反抗期の負けず嫌い、淋しがり屋の平和主義者。人を笑わせ、愛することに命がけ、本気で世界と戦おうとしてたんじゃないか、この二人。しかもペン一本で。体当たり、ナマ傷だらけの作品が、時代を超えてしみてくる。
 さて寺山修司の父、八郎が東奥義塾に通っていた頃、津島修治は旧制弘前高校(現弘前大学)に通っていた。戦前、弘前の町角ですれ違ってたりして、なんて想像するとちょっと楽しい。袖すり合うも他生の縁。案外、私たちのご先祖様だって、どこかで二人と会っているかも、だ。うーむ、どこだろう。やっぱ鍛治町? いや、榎小路かな。