2015年2月19日木曜日

ときめきの太宰   田邊 奈津子(弘前ペンクラブ会員) 

 太宰治は今もたくさんのファンを持つという稀有な文豪だ。同じ時代に活躍し、ほとんど顧みられない作家がいることを考えると、太宰は読者に熱愛されている。
 けれども私は長いこと尊敬できなかった。名作が多く、ユーモアとエスプリの効いた『津軽』や『お伽草子』は好き。でも、ひとりの人間として考えたとき、心中事件で一九歳の女性を死なせて自分だけが生き残るなんて、ひどいと思う。さらに、聡明な美知子夫人との間に三人の子がいながら、山崎富栄と玉川上水で入水自殺とは、夫として父親として無責任すぎると、胸の中で怒りを覚えた。
 その気持ちが変わったのが、二年ほど前「太宰治まなびの家」でボランティアガイドを務めたことだった。太宰こと津島修治が旧制の弘前高校で学ぶために下宿した藤田家は、当主が酒造メーカーの経営に携わっていただけあって、実に趣のある建物である。一階の天井の梁はどっしりと太く、大正時代からの時の流れを感じさせ、階段を上って二階の突き当りである修治の部屋は『あずましい』空間だ。窓に映る庭の木々は折々の四季を感じさせるし、机がある場所は明るい陽射しが差し込んで、宙に浮かんでいるような感がなくはない。
 お客様は私の印象に残る方も多かった。「昔、自分の父がここの酒蔵で働いていた。酒蔵は都市計画で跡形もないけれど、子供の頃に何度か訪れたお屋敷が現存していることが、懐かしくてうれしい」と語った八十代の老婦人。あるいは『藤田の葡萄液』は濃紺で甘みが強くて、その味が忘れられないという年配の方。古民家は手入れが必要で大変だけれど、人々の思い出とともに呼吸して、生きているのだろう。
 さて、太宰のことに話を戻そう。館内には高校時代の飾らない笑い顔の写真が展示され、その当時に創刊した同人誌を読むことができる。
 あるとき私はその同人誌のページをめくりながら、高校時代の太宰がとても熱心に創作に励んでいることに驚かされた。二十歳とは思えないしっかりした文体に、一字一句を推敲した跡がうかがえる。内容は実家が大地主であるのに、その生活ぶりを批判するような社会派小説。この書きっぷりでは、勉強そっちのけだっただろう。なにせ、義太夫を習ったり、芸者と遊んだりと、忙しい学生生活だったから。自分でも成績が気がかりだったのか、試験の前に睡眠薬を過剰に飲み、自殺未遂をして、周囲を心配させた。そう、この家は人生初の自殺未遂をした現場であるという。
 そんな彼の写真はあどけない少年のままだ。じっと見つめると、作家として生きるために、何人もの女性の人生を狂わせ、それを肥やしにして、書き続けて、命を燃焼させたのだと、そんなささやきが聞こえた気がした。その縁側から吹く風に頬を撫でられた瞬間から、私は太宰にときめいている。

津軽語版『走れメロス』について   鎌田 紳爾(音楽家) 

 太宰治は、生まれてから10歳までといわれる言語形成期をはるかに超えた21歳までをこの津軽で過ごしました。
 当然のことながら太宰は金木、青森、弘前と、どっぷり津軽弁の世界に暮らしたことになります。
 ですから、太宰の日常会話は津軽弁でしたし、訛りも相当強かったといわれています。
 太宰が同人誌や学生会誌に盛んに小説を書いていた、官立の旧制弘前高等学校時代の作品には、例えば「オシロイをなすりつけた」を「オシロイをなしりつけた」、「イライラした気分」を「エラエラした気分」など、津軽弁そのままの表記が見られます。
 また、独特な文体や句読点の打ち方に他では見られない独創性があるのも、太宰の「母語」としての津軽弁が影響していると考えられます。
 そこで、太宰の作品を反対に津軽弁に翻訳してみることで、太宰の文体や言い回しの秘密があるのではないかと思い立ち翻訳したのが『走れメロス(走っけろメロス)』と『魚服記』でした。
 比較的初期の作品である『魚服記』には、まだ津軽弁の片鱗がみられますが、『走れメロス』では、発音上の片鱗をみることはありませんが、津軽弁に訳して朗読してみると、そこにはやはり津軽弁の、あるいは津軽的用法を感じ取ることができます。
 私はこの二つの朗読を北は札幌、南は高知にいたる十数か所で朗読をしましたが、概ね評価が良かったのは、朗読から立ち上がっていく「津軽人・太宰治」を感じ取ることができたという評を頂いたことは、とても嬉しいことでした。
 そして、それは太宰の文字が、どんな言語に訳されても「太宰治」であるという強靭な文学であるということに他なりません。

太宰に恋して   I(北海道在住)

 昨年の春、北海道から弘前大学に進学した息子の家の近所で偶然「まなびの家」を見つけました。太宰治は名前しか知らなかったのですが「どうぞおはいり下さい」の張り紙に誘われ中に入ると、太宰治が官立弘前高等学校へ通うために下宿していた旧藤田家の住宅だと、解説員さんが丁寧に案内して下さいました。
「私は、この弘前の城下に三年ゐたのである。弘前高等学校の文科に三年ゐたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝つてゐた。」(『津軽』より)
 日当たりの良い2階の下宿部屋には、愛用した机やたんす、壁には学生服と黒いマントが掛けられ、よく見ると壁に苦手だったという数学の方程式の落書きも残っています。「見栄っ張りでオシャレで三味線が趣味で、芥川龍之介を意識し…」との説明を聞き、そこにあった太宰治の写真に胸がときめきます。長身で面長、大きな目に筋の通った鼻…前髪を垂らしニヒルな微笑み。なんと私は一瞬で太宰治に恋してしまったのです。
「生活。よい仕事をしたあとで一杯のお茶をすする。お茶のあぶくにきれいな私の顔がいくつもいくつもうつっているのさ。どうにかなる。」(『葉』より)。
 自分の顔をきれいだと言い切る太宰治は、やはり格好いいと思います。
 座敷のテーブルには「太宰治作品全集」と原稿用紙、よく削られた鉛筆が置いてあります。適当に1冊手に取り、たまたま開いたページの一節を「私が好きな太宰の一節」という見出しの続きに書き写しました。
「人間が、人間に奉仕するというのは悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは善い事であろうか」(『桜桃』より)。
 翌月再び訪ねると、解説員さんは私のことを覚えていてくれました。「斜陽館」の写真を見せてくれ、太宰治の故郷である金木町の話をしてくれました。実際に「斜陽館」を見たくなった私は翌日、津軽鉄道「走れメロス号」で金木町を訪ねました。「芦野公園」駅で列車を降り、桜の下で威風堂々と建つマント姿の銅像前で一礼します。彼が通った小学校の前を通って金木町へ向かい「太宰通り」「メロス坂通り」をのんびり散策します。太宰治の実家である津島家の菩提寺「南台寺」、幼少の頃、子守りのタケと訪ねた「雲祥寺」をお参りし「斜陽館」に着きました。重厚な赤レンガ塀にぐるりと囲まれた宅地は面積約860坪という大豪邸でした。最後に「太宰治疎開の家」(旧津島家新座敷)を列車の時間ギリギリまで見学しました。
 帰りの電車で「太宰餅」を頬張りながら色々と考えてみました。常に死を意識し30代で命を絶った太宰治。心中した山崎富栄は遺書に「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません」と書き、太宰治は妻に「美知子、誰よりも愛していました」と記しました。彼を愛した女性達は彼を愛したことを後悔してはいないと思うし、太宰治は幸せだったのではと思います。今秋、「まなびの家」の訪問で書いた「一節」。
「子供より親が大事と思いたい。子供よりも、その親の方が弱いのだ」(『桜桃』より)
 これは、父太宰治が子へ宛てた最期のメッセージ(言い訳)のようにも思えました。
 次に弘前を訪ねる時は小説「津軽」をカバンに入れて、太宰治が通った土手町の喫茶「万茶ン」で読むつもりです。そして、また「まなびの家」に行き、太宰治ファンになるきっかけを作ってくれた太宰治にソックリで親切なイケメン解説員さんに会って、お礼を言おうと思うのです。

太宰治と私   柳家小きん(噺家 社団法人 落語協会 真打) 

 太宰治は、私を落第から救ってくれた、作家である。
 私が、初めて、太宰の文学に接したのは、高校生の頃の現国の授業だった。その年の期末試験の折に、「この時の作者(太宰治)の気持ちについて、述べなさい」という、出題があった。私は、太宰の気持ちには、一毛にも触れずに、「思い人を死なせ、自ら命を絶った人の言葉に、今を生き抜く人に伝えるべき、真実があるのか?」と、設問とは反した、自前の生命論を展開した。その解答は、解答用紙の裏面全面にまで及び、挙句の果てに、「人類が必要としているのは、死の誘惑に打ち克ち、生き抜いてきた人の言葉である」「私は、落語で、その魂の叫びを、伝えてゆく」と、結んだのである。
 今、読み返せば、汗顔の至りである。これが、18の歳の私の真情だった。答えになっていない、私の解答は、点数が付くはずがなく、自ら落第の坂を、転げ落ちたようなものだった。
 これに対し、吾が恩師・吉田輝義先生は、「自ら命を絶たざるを得なかった人の、心の叫びをも、受け止められる人になってください」と、赤ペンで書かれて、私に、及第点を遥かに凌ぐ、最高点を、付けてくださったのである。おかげで、私は、落第を免れた。
 余談だが、吉田先生は、母校から転任後、赴任されたすべての学校で、私を呼んでくださった。教諭として赴任された最後の高校では、先生の文学の授業のひとコマを、私に与えてくださり、私に講師を任せてくださった。後日に、先生は、「貴方の、その誠を尽くす、真摯な生き方が、生徒達の心を震わせ、目を輝かせたのです」と、私にエールを送ってくださった。先生から、「文学とは、自らの生き様を通して、問題提起をし、内なる心の声に耳目を傾けさせる行為である」と、教わった気がした。授業を受けたのは、私だったのである。

 私が、弘前へ伺う度に、「津軽人と江戸っ子は、よく似ているな」と、感じる機会が増える。シャイで照れ屋だが、芯の強さを持ち、実はお洒落で新し物好きで、心を通わせた相手には、とことんまで誠を尽くす。津軽の人々が、誰もが胸中の奥底に持つこの美質は、実は、落語に出てくる江戸っ子そのものなのである。だから、古典落語は、津軽人に、愛されるのである。何を隠そう、私の「津軽人=江戸っ子」説の、一番の証人こそ、太宰治である。太宰は、「走れメロス」の最後の一行で、それを見事に、表現している。
 「勇者は、ひどく赤面した」
真の英雄である主人公を、はにかませながら、その劇の幕を降ろす。ここに、私は、津軽人ならではの美質を見、江戸文化の「粋」を、見るのである。
 私が初めて、青森市内で落語口演する際に、主催者の皆様に、口を揃えて、言われたことがある。
 「青森の人は、あまり笑わない」「誰もが知る、著名な師匠が、蹴られた(ウケなかった)」
 「小きんさん、大丈夫ですか?」
私の知名度の低さからくる、実力の未知数さと、過去の噺家の振る舞いからくる、トラウマとの、合わせ一本!の、反応であった。
 私が、弘前へお邪魔するのは、本年11月19日のまなびの家での会で、八回目。足掛け三年余りで、口演の数は、二十数席にも及ぶ。こんなにも、皆様が、私を可愛がってくださる理由は、弘前の人達の我慢強さは勿論だが、やはり、津軽の人と、江戸っ子の私との、「心の有り方の近さ」が、一番の理由であると、私は勝手に思っている。
 弘前初訪問から、来弘の度に開催している、私の独演会を、「ふるさと寄席」と、命名させていただいた。田舎の無い、故郷の無い私の心の故郷が、津軽だからである。太宰も、きっと、東京に住む人の心の中に、津軽をみたに、違いない。

「太宰は好きか?」と問われて   大津 眞也(高松丸亀町弐番外・参番街 運営室 館長) 

 大学生の頃、仏文研究室の先輩から「太宰は好きか?」と訊かれた。即座には好きとも嫌いとも答えられなかった。何故なら、作家太宰治と同じ津軽という気候風土の地に生まれ育った私には、とても繊細で微妙な問いかけだったからだ。いま還暦を迎え、39歳の若さで入水自殺を遂げた太宰治よりも20年以上も長生きしているのに、いまだにこの質問の答えを見つけられずにいる。

 最初に読んだ太宰治作品は中学校の国語の教科書に載った『走れメロス』だ。当時の中学国語教師工藤光男先生の情熱的な授業も今ではとても懐かしく思い出される。「メロスは激怒した」の書き出しで始まる彼のこの短編は、漸く小説を読み始めたばかりの田舎の中学生にはかなり新鮮な驚きだった。高校に入学して間もなく読んだ仏作家アルベール・カミュの『異邦人』の書き出し「今朝、ママンが死んだ」に出会った時、この『走れメロス』の書き出しを思い出した。

 私が入学した高校には、当時3人の太宰治に纏わる先生方がおられた。校長の小田桐孫一先生は芥川賞創設の文藝春秋社の菊池寛(今私はその菊池寛縁の地の高松にいる)に薫陶を受けて、戦後故郷弘前に戻り、教育者になった。教頭の藤田本太郎先生は旧制弘前高校時代の太宰治が下宿していた藤田家(現在の「太宰治まなびの家」)のご子息であり、津島修治に可愛がられた少年だった。もうひとりは授業を受けることはなかったが、太宰治研究家で後に大学教授になった相馬正一先生だ。

 小田桐孫一先生は私たちが最後の卒業生だった縁(私たちの同期会の名称は「孫の会」)もあり、私は帰省の度に何度も撫牛子の先生のご自宅にお邪魔した。一度だけ太宰治のことを尋ねたことがあった。どんな内容だったのかは今ではあまり覚えていないが、遠くに視線を投げて悲しい表情をしていた記憶だけが残っている。きっと先生にとっては、戦前、戦中、戦後の同時代を生きた同じ津軽出身の太宰治は簡単に論ずることができる対象ではなかったに違いない。

 『走れメロス』から始まったせいか、『人間失格』や『斜陽』という作品よりも、私は太宰治の短編小説が好きだ。どれが一番とは言えないが、最近は『葉桜と魔笛』がいいと答えている。女性の語り口で綴られる太宰治の短編小説のなんと魅力的なことか。稀代のストーリーテラーと呼ばれる所以だ。きっと弘前公園の満開の桜もその葉桜も観ているはずだし、ねぷた祭りの笛の音も耳にしているはずだ。だから、私はこの短編小説の舞台は勝手に弘前の街だと思っている。
 

 人間太宰治には女々しいイメージがつきまとう。実際、故郷の長兄に頭の上がらないだらしない男だ。それが女性の語り口を借りると生き生きと甦る。もちろん、人間太宰治と太宰治作品は別物なのだが、イメージばかりが独り歩きしている。ただ『津軽』で見せた太宰治だけは津軽で生まれ育った津島修治に戻った姿だったに違いない。「『津軽』の太宰治は好きか?」と問われたら、私は躊躇なく好きと答えるはずだ。

「太宰治まなびの家」と「弘前ペンクラブ」について   斎藤 三千政(弘前ペンクラブ会長) 

 1「太宰治まなびの家」の指定管理者に
 平成25年3月21日、弘前ペンクラブは弘前市教育委員会教育長と、「弘前市指定管理者による旧藤田家住宅の管理に関する協定書」を締結し、4月1日から「太宰治まなびの家」の管理・運営を開始しました。
 私どもペンクラブ会員にとっては、まったく初めての任務でしたので、戸惑いの毎日でしたが、一年があっという間に過ぎてしまった、というのが正直な気持ちです。2年目の本年は、昨年の業務の点検・反省を踏まえながら、さらなる創意工夫を加えて、任務にあたりたいと思っておりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。


 2「弘前ペンクラブ」とは
 平成7年11月10日、弘前プラザホテルにて、100名の会員を集めて「会員相互の親睦を深め、表現の自由を守り、地域の文学活動に寄与することを目的」に、弘前ペンクラブ設立総会を開催し、その目的の達成のため、主として講演会、講習会、研究会の開催のほか、各種イベントの実地、また、「弘前ペンクラブニュース」を発行し、会員に文学活動の場を提供してきたところです。

平成17年11月12日には、弘前ペンクラブ創立十周年記念祝賀会を開催し、「弘前ペンクラブニュース」の合本を出版して、10年間の歩みを振り返りました。

 
 3「旧藤田家住宅」について
 太宰治(津島修治)は、昭和2年から5年までの3年間、藤田豊三郎方(当時は弘前市富田新町57)に下宿しました。
 旧藤田家住宅は、大正10年に元碇ヶ関村長の家を移築したと伝えられています。この大正時代から戦前までの時期は、日本住宅史上の一大変革期で、それまでの建物外周の縁側や、次の間などの構成とは異なり、「居間」や「個室」が配置される、いわゆる「中廊下型平面」「居間中心型平面」と称される様式が、定着したといわれています。
 この旧藤田家住宅は、弘前市に現存する大正時代の建物としてはきわめて貴重であり、保存する重要性が高いことから、平成18年3月24日、「太宰治まなびの家」として、弘前市の有形文化財に指定され、4月18日に公開されました。
 

 4貴重な文学遺産を後世へ
 太宰作品は、たとえば、新潮文庫に限っても、平成25年6月現在で、全作品の総売り上げ数が、じつに2100万部を超えています。驚異的な数値というほかありません。国内はもちろんですが、多くの国で翻訳され、国際的にも高い評価を得ている、日本を代表する作家であることは、多くの人が認めるところであります。
 太宰は官立弘前高等学校の3年間を、この「太宰治まなびの家」で過ごし、作家への夢を加速させました。それゆえ「太宰治まなびの家」のもつ文学的意義は、計りしれないものがあると考えられます。すなわち、第一級の文学遺産であるということです。このすぐれた文学遺産を全国に発信し、後世に伝えていくことが、いま、私たちに課せられた使命である、と肝に銘じています。ぜひ、ご来場いただければ、喜びこれに勝るものはございません。
 

2015年2月18日水曜日

   太宰朗読と津軽弁    中村 雅子(「津軽」語りスト) 

  「太宰治まなびの家で、いつか朗読させていただきたいです。」
 私がそう申し上げたのは2013年の春。弘前ペンクラブのSさんのインタビューにお答えすることになり、今後の夢を問われてそうお答えしました。するとSさんが、「あら、まなびの家は今年から弘前ペンクラブが管理することになったのですよ。」……と!
 何か運命的なものを感じたと言ったら大げさでしょうか。
 ほどなく、Sさんから企画書の用紙をいただいた私は、まず、個人ではなく所属している『「津軽」語りスト』として公演の申し込みをしました。県内でこうした活動をしている団体があることを知っていただきたかったことと、代表が弘前在住なので色々連絡が取りやすいことが理由でした。
 そしてその年の8月、メンバー10人余りで最初の公演をすることができました。真夏の公演なので暑さが懸念されましたが、当日は幸いさほどの猛暑ではなく、開け放した戸口からは心地よい風が吹き抜け、お越しいただいた大勢のお客様からもご好評をいただきました。

 年が明けて2014年初夏。太宰治生誕の日である6月19日に、今後は私個人で朗読する機会をいただきました。しかも、前日に行われるシンポジウムの合間にも短い作品を是非、とのお話まで! またとないお話に、今年はやむお得ず語りスト公演を欠席させていただき、弘前へと向かったのです。
 シンポジウムも無事終わり、いよいよ19日の朝。弘前の祖母の家で和服に着替え、いざまなびの家へ……。旧制高校時代の太宰がかつてこの家で暮らしたのだと思うと、家具や棚、柱の1本にさえ特別な思いを抱かずにはいられません。藤田家の家族とともに太宰が写真に納まったまさにその場所で、私は朗読をさせていただきました。

 メインに選んだのは「津軽」の最終章。子守のたけと太宰が小泊で再会する場面は、ことに有名です。たけと、津軽で会った人々のセリフは津軽弁で、あとは標準語で朗読しました。30分を超える朗読でしたが、お客様が真剣に聴き入ってくださる様子は読み手の私にもひしひしと伝わり、部屋の片隅では太宰さんも聴いてくださっているような……そんな不思議な感覚さえありました。
 ラスト近くのたけの「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった……」で始める長セリフ、ここを読む時私はいつもたけに感情移入してしまい、涙がこみ上げてきてしまいます。標準語で読むのでは何か空々しくて伝わらず、津軽弁でたっぷり表現してこそ作品の心が伝えられる……。そう気付いたのは、今から5、6年前太宰作品の朗読をライフワークにしようと思い定めた頃でした。
 「雀こ」という、全編津軽弁で書かれた作品がありますが、これを初めて読んだ時、津軽出身の私のような者にしか表現できないのでは? という自惚れにも似た喜びをおぼえたのです。東京の仲間に聴いてもらったところ、「中村さん、標準語の朗読よりずっと生き生きして魅力的! 声もお腹からしっかり出てる」と言われたことも大きかったように思います。
 それ以来、津軽が舞台になっている作品や津軽の人が登場する作品は、一部を津軽弁で表現するという今のスタイルが定着し、それを楽しみに来てくださる方も増えてきました。
 でも、これは関東だから受けるのだろうか、もしかしたら、津軽弁が珍しいからなのかも……。地元でも果たして喜んでいただけるだろうか……。という一抹の不安も実は抱えながら臨んだまなびの家での朗読会でしたが、3作品を読み終えた時のお客様の大きな、そして温かい拍手に、それは私の杞憂であったことを知り、心から有難く思いました。
 太宰は東京生活が長くなってからも津軽弁がなかなか抜けなかったといいます。彼の作品には、津軽弁独特の言い回しが所々に見られ、やはり彼は紛れもなく津軽人だったのだと改めて感じます。
 であればこそ、朗読者として「津軽の心」を丁寧に表現していきたいですし、私にしかできない太宰朗読というものを目指して、今後も地道に努力していきたいと思います。
 まなびの家で三度朗読させていただける日を夢見ながら……。