2015年2月18日水曜日

   太宰朗読と津軽弁    中村 雅子(「津軽」語りスト) 

  「太宰治まなびの家で、いつか朗読させていただきたいです。」
 私がそう申し上げたのは2013年の春。弘前ペンクラブのSさんのインタビューにお答えすることになり、今後の夢を問われてそうお答えしました。するとSさんが、「あら、まなびの家は今年から弘前ペンクラブが管理することになったのですよ。」……と!
 何か運命的なものを感じたと言ったら大げさでしょうか。
 ほどなく、Sさんから企画書の用紙をいただいた私は、まず、個人ではなく所属している『「津軽」語りスト』として公演の申し込みをしました。県内でこうした活動をしている団体があることを知っていただきたかったことと、代表が弘前在住なので色々連絡が取りやすいことが理由でした。
 そしてその年の8月、メンバー10人余りで最初の公演をすることができました。真夏の公演なので暑さが懸念されましたが、当日は幸いさほどの猛暑ではなく、開け放した戸口からは心地よい風が吹き抜け、お越しいただいた大勢のお客様からもご好評をいただきました。

 年が明けて2014年初夏。太宰治生誕の日である6月19日に、今後は私個人で朗読する機会をいただきました。しかも、前日に行われるシンポジウムの合間にも短い作品を是非、とのお話まで! またとないお話に、今年はやむお得ず語りスト公演を欠席させていただき、弘前へと向かったのです。
 シンポジウムも無事終わり、いよいよ19日の朝。弘前の祖母の家で和服に着替え、いざまなびの家へ……。旧制高校時代の太宰がかつてこの家で暮らしたのだと思うと、家具や棚、柱の1本にさえ特別な思いを抱かずにはいられません。藤田家の家族とともに太宰が写真に納まったまさにその場所で、私は朗読をさせていただきました。

 メインに選んだのは「津軽」の最終章。子守のたけと太宰が小泊で再会する場面は、ことに有名です。たけと、津軽で会った人々のセリフは津軽弁で、あとは標準語で朗読しました。30分を超える朗読でしたが、お客様が真剣に聴き入ってくださる様子は読み手の私にもひしひしと伝わり、部屋の片隅では太宰さんも聴いてくださっているような……そんな不思議な感覚さえありました。
 ラスト近くのたけの「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった……」で始める長セリフ、ここを読む時私はいつもたけに感情移入してしまい、涙がこみ上げてきてしまいます。標準語で読むのでは何か空々しくて伝わらず、津軽弁でたっぷり表現してこそ作品の心が伝えられる……。そう気付いたのは、今から5、6年前太宰作品の朗読をライフワークにしようと思い定めた頃でした。
 「雀こ」という、全編津軽弁で書かれた作品がありますが、これを初めて読んだ時、津軽出身の私のような者にしか表現できないのでは? という自惚れにも似た喜びをおぼえたのです。東京の仲間に聴いてもらったところ、「中村さん、標準語の朗読よりずっと生き生きして魅力的! 声もお腹からしっかり出てる」と言われたことも大きかったように思います。
 それ以来、津軽が舞台になっている作品や津軽の人が登場する作品は、一部を津軽弁で表現するという今のスタイルが定着し、それを楽しみに来てくださる方も増えてきました。
 でも、これは関東だから受けるのだろうか、もしかしたら、津軽弁が珍しいからなのかも……。地元でも果たして喜んでいただけるだろうか……。という一抹の不安も実は抱えながら臨んだまなびの家での朗読会でしたが、3作品を読み終えた時のお客様の大きな、そして温かい拍手に、それは私の杞憂であったことを知り、心から有難く思いました。
 太宰は東京生活が長くなってからも津軽弁がなかなか抜けなかったといいます。彼の作品には、津軽弁独特の言い回しが所々に見られ、やはり彼は紛れもなく津軽人だったのだと改めて感じます。
 であればこそ、朗読者として「津軽の心」を丁寧に表現していきたいですし、私にしかできない太宰朗読というものを目指して、今後も地道に努力していきたいと思います。
 まなびの家で三度朗読させていただける日を夢見ながら……。

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