2015年10月20日火曜日

太宰治こと津島修治様   澤口 淑子(弘前文学学校生徒) 

  私は、久方ぶりで隣町の小学校を訪ねた。ほぼ半世紀前に、長男、次男の学んだ小学校である。当時小学校の校門の脇に二メートル程の石碑が立ち、そこには「素直ないい子」と彫られてあった。
 ある時、石碑について説明があり、太宰治の「人間失格」の最後尾「葉ちゃんは、とても素直で……神様みたいないい子でした」と閉め括られた小説から選んだものだという。
 太宰治の信奉者が寄贈したものだと聞いた。後には、かの石碑について「教育の場に人間失格とか、情死作家の心情を掲げるとは……」と異論が唱えられたと記憶している。「素直ないい子」はどうなっているのだろう。期待と不安が頭をよぎる。
 校舎は新築され、ちんまりとコンクリート造りに変わっていた。広かった校庭は半分に削られ、うっそうとした樹々に覆われた公園になり、町の避難場所と標されていた。
 年月の差を痛感する。正面玄関の大窓には人文字で「えがおであいさつ」「思いやりのある笑顔でやさしい○○小学校の子」と赤文字で大書されている。現実に引き戻された我が身は、太宰さんは何処へ? と一抹の寂しさを抱えて帰宅した。
 人間失格の〝はしがき〟に、問わず語りしている……、十歳前後の写真を醜く笑っていると書き記し、太宰の多くの写真は、この世の責め苦を一人で背負っているかの風貌で、人々の瞼に張りついていると思う。
 今では、津島修治と問われても太宰治と一致しない人が多いと聞く。太宰、だざい、ダザイで通じるのだ。毎日のように、新聞、雑誌のコラム等でお目に掛る。何故こうも人気があるのか? 裕福な家庭に育った修治さんは、感謝を言葉に現したことがあるのか?
 私の手元にある(河出書房)太宰治集に十五編収められ、作品の多さに驚く。
 監修に谷崎潤一郎、武者小路実篤、志賀直哉、川端康成氏の名がある。大作家なる先生方は、太宰か、津島さんいずれを希望の星と認めたのだろうか。批評家でもない、まして人の生き方に口を出すべき我が身ではない。しかし人は全て、成したことに代価を払わなければならぬのも、当然だとおもう。小説を書くということは、人間を書く、命の輝きを書くと弘前文学学校で講義を受けた。太宰の作品は、津島修治の心の泉から湧き出た雫であり宝である。
 津島修治さんへ漱石先生の「それから」の終章を贈りたい。愚図な代助へ兄の一喝……「お前は平生からよく分からない男だった。世の中に分からない人間ほど危険なものはない。何をするんだか――安心ができない。お父さんや俺の社会的地位、お前だって家族の名誉という観念は持っているだろう」
 あくまで作品が大元なのであって、どんな形で姿を現すか作家の文学的手腕だと思う。

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